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2 0 1 5 年 5 月

平成27年5月29日(金)

< 遠賀川橋梁 >


福岡県の筑豊地方を貫く遠賀川では、かって木造船
「川ひらた」が行き交い、筑豊炭田の石炭を運んだと
いう。

明治期の工業発展が求められ、線路建設とともに
「遠賀川橋梁」が架けられたそうだ。

増設を繰り返した3本の鉄橋のうち1本はなお現役。

鉄橋を架けて部分開通したのは1891年のこと。

1923年には鉄橋3本を輸送体制ができあがった
ようだ。

このとき架けた3本目がJR九州筑豊本線の下り線
の鉄橋として今も使われているとのこと。

全長400メートル近い連続トラス橋は、組み合わせた
薄緑色の鉄骨から武骨な雰囲気も漂っているそうだ。

現在の上り線が通るのは1965年に架けたというコン
クリ―ト橋。

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のロケにも使われた
下り線のトラス橋は筑豊が石炭で沸いていた時代の
名残り。

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平成27年5月28日(木)

< 三角西港 >


明治時代、天草諸島で臨む、宇土半島に山を削って
海面を埋め立て、近代的な港湾都市が建設された。

「三角西港」がそれだ。

「明治3大築港」の1つ。

明治17年から20年にかけて築港。

港が位置する旧三角町は有明海、不知火海の2つの
海に面し、熊本の物資や人々が行き交う海上交通の
要衝として繁栄したという。

築港後は、旧宇土郡役所や旧三角簡易裁判所などが
設置され、地域の行政や司法の中心地だったようだが、
港の役割が終わるとともに衰退したという。

この港の石積みを行ったのは天草の石工たちで、切り
出した石材を丹念に仕上げ、当時の日本では見られな
い曲線を多用した加工で積み上げたようだ。

排水路は満潮時に海水を引き込み、干潮時に排水する
よう造られ、天然の下水道や山水の排水の役割も果たし
ていたようだ。

現在は、観光港として旧倉庫や洋風建築など、明治の
面影を残す歴史的建造物をカフェやレストランに改装し、
一般開放しているそうだ。

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平成27年5月27日(水)

< 神話の台地、実る在来種 >


宮崎県内ではかって、麦の栽培が盛んに行われていた
という


その中でも本県在来種の「ミヤザキハダカ」は1942年に
県の主要農作物奨励品種に指定され、広く栽培されてい
たようだ。

しかし、安価な外国産麦の流入や食生活の変化、栽培
の難しさなどによって衰退し、昭和の終わりとともに姿を
消してしまったようだ。

そんな“幻の麦”を復活させたのは、麦焼酎を造り続けて
きた柳田酒造(都城市)。

県総合農業試験場に残されていた種籾の提供を受けて
2007年から試験栽培。

2009年から農事組合法人が委託栽培を開始。

その麦で醸造さけた焼酎は従来の麦焼酎に比べ、香り
高いものに仕上がったという。

麦の栽培は冬場に2度の麦踏みが必要。

収穫前には雨風による倒状の心配があり、赤カビ病防止
にも気を使うなど手がかかるようだ。

蔵元の思いから復活したミヤザキハダカ。

農村活性化の可能性は無限。

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平成27年5月26日(火)

< 大山町農協 >


大山町農協は1961年から「ウメ・クリ植えてハワイに
行こう」をキャッチフレーズに、稲作や牛の飼育をやめて
有機栽培の高付加価値農業に着手。

1972年からはキノコ栽培。

さらに1990年には直売所「木の花ガルテン大山本店」を
オープン。

2001年からはレストランも開業しているようだ。

こうした農業の生産、食品加工、流通、販売を組み合わせ
る手法は「6次産業化」と呼ばれ農業で自立するための代
表的な手法と言われている。

今年3月には「木の花ガルテン五馬媛(いつまひめ)の里」
を開園。

東京ドーム5個分に相当する敷地に樹木1万8千本以上が
植えてあるという。

木の花ガルテン大山本店の来客は年間100万人。

約7キロメートル離れた「五馬媛の里」には将来その半分の
50万人の来客が目標とのこと。

6次産業化の次のモデルとなるかどうか。

村おこしの元祖の新しい挑戦が始まる。

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平成27年5月25日(月)

< 湘南 >


その昔、湘南と言えば、加山雄三、ワイルドワンズに
代表される湘南サウンド。

しかし、今は神奈川県の海沿いに広がる湘南が新ビジネス
のゆりかごとして注目されつつあるようだ。

最近、東京、大手町にある新しい高層ビルの一階に一軒の
サンドイッチ店が開業したという。

このビル内の他のテナントは大手資本のチェーンが多いが、
このサンドイッチ店は神奈川県葉山町にある個人経営の
2号店なのだそうだ。

14年前に個人で開業した手作りパンの店が健康に配慮
した素材や製法へのこだわりから評判となり、パンケー
キやサンドイッチへと商品を広げ、誘われて都心に進出
したようだ。

湘南には、自然を生かすアウトドア教室、ネットで直販する
養豚業者、鎌倉のIT企業などがあるという。

健康志向から自然を求め移住者が増え、こうした人々向け
に飲食店などができ、それがまた若い起業家も呼び込む
循環となっているようだ。

地域の元気のもとは好奇心にあふれる人々を呼び込む
ことだと、

湘南の今は物語っているようだ。

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平成27年5月23日(土)

< 天狗谷窯跡 >


佐賀県有田町の山あいに日本で初めて磁器を焼いた窯
の一つと言われている天狗谷窯跡があるという。

今からおよそ400年前有田焼創始期に山の斜面を使い、
焼成室を段階状に幾つも連ねて築かれた複数基の登り
窯跡で、長さは50メートルに達したとみられる。

1968年、天狗谷窯跡から白い磁肌に呉須の染め付けが
鮮やかな有田焼陶片が発掘されたのを受け、古窯跡の調
査が本格化したそうだ。

有田周辺では、江戸時代の終わりに大小100を超える登り
窯があったという。

現在はそのほとんどが失われ、町内に窯跡が66カ所ある
だけだそうだ。

確かに言えるのは、天狗谷窯をはじめとする登り窯は、美
しい色彩や絵柄の染め付け青磁、白磁の量産に道を開き
有田焼などが産業として確立する磁となったことだ。

1980年に国指定史跡となったそうだ。

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平成27年5月22日(金)

< ビニール傘 >


透明で軽やかなビニール傘。

今や使い捨ての代名詞となっているが、かっては最先端の
ファッションアイテム。

ビニール傘は外国人の定番の日本土産であるそうだ。

ビニール傘を開発したのは、江戸時代から続く傘問屋。

1958年、乳白食の塩化ビニールとして誕生。

塩化ビニールのフィルムは水を通さず、傘の生地として
これ以上ない適性があった。

1960年になるとビニールは透明になり、ファション界で
注目されるようになり、靴やベルト、バックなどにも使わ
れたようだ。

安物イメージが根付いたのは1980年代。

中国製などの輸入品が増え、街にあふれるように。

ダイオキシン問題が浮上した1990年代にはやり玉に
挙げられ、塩化ビニールからポリオレフィンなどへ。

環境によくない、おしゃれではない、品がない・・・・。

散々な言われ方をしてきたビニール傘。

しかしビニール傘そのものも進化。

日本の傘問屋は骨の上に空気を抜く穴を開け風にあお
られない傘を開発。

英国も米国も新しいビニール傘を開発しているという。

英国も米国も新しいビニール傘を開発しているという。

使い捨てから使い続ける傘へ。

日米英3社のビニール傘は新時代の到来を予感させる。

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平成27年5月21日(木)

< 遠賀川水源地ポンプ室 >


「鉄は文明開花の塊なり」。

幕末、福沢諭吉はこう語ったという。

福沢の予見通り、日本の近代化の歩みは鉄とともにあった
のは間違いない。

その製鉄業を支えてきた重要施設の1つが福岡県中間市
にある「遠賀川水源地ポンプ室」。

官営八幡製鉄所が明治43年に建設。

遠賀川から水を汲み上げ、主に冷却用として12キロ離れ
た製鉄所に送ったという。

英国から輸入した石炭ボイラーと蒸気式ポンプが採用され
たようだ。

ポンプの動力は石炭だっただけに、周辺には石炭関連
の施設も。

昭和25年にボイラーは電動モーターに代わり石炭関連
施設は取り壊し。

今なお八幡製鉄で必要な水の7割を送るバリバリの現役
施設だそうだ。

5月4日、このポンプ室は「明治日本の産業革命遺産」の
1つとして、正式決定がほぼ確実。

この決定を受け、このポンプ室を見学する人のために週
末に観光ガイドを配置するようにしたそうだ。

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平成27年5月20日(水)

< 赤チン >


昭和30年代から40年代は子供が腕や膝小僧を擦りむく
と、たいてい赤チンを塗って治療はおしまいだった。

赤チンはマーキュロクロム液というのが正式な商品名だ
が、濃い赤色の液なので、そう呼ばれていたようだ。

この色はとにかく目立ち、大した傷でないことも分かるから
あまり格好よいものではなかった。

小学校の保健室で先生に赤チンキを塗ってもらう時など、
包帯を巻いてくれればと思ったりしたものだ。

大きなケガのように見られる方が何となくよさそうに思えた
からだ。

そんな赤チンキであるが、最近あまり見かけないと思ってい
たら製造工程で水銀を出すという理由から国内では製造中
止になっていた。

当時赤チンのほかにヨーチン、リバノールがあった。

ヨーチンは刺激が強くて敬遠。

黄色のリバノールは皮膚を刺激せず、目立たないので子供
たちには好まれていた。

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平成27年5月19日(火)

< 五右衛門風呂 >


五右衛門風呂はカマドの上に鉄製の釜を据え、下から薪を
焚いてお湯を沸かすお風呂。

その名前は、釜ゆでの刑に処された盗賊、石川五右衛門に
由来とか。

このお風呂は昭和40年代頃まで、築数年が古い家で見ら
れたが、次第にガスや電気のお風呂に変わっていき、今で
はほとんど見られなくなった。

五右衛門風呂は、直接火の当たる底の方はとても熱いため
木で作られた底板を上手に足で踏みながら沈めて入る。

学生時代、京都の園部という所に住んでいた友人を訪ね、
その家に一泊したことがあった。

部屋数の多い大きな家だったが、かなり年数が経っていた
ような気がした。

夕食前、お風呂に入るように勧められ、風呂場に入ったところ、
そのお風呂はまさしく五右衛門風呂。

浴槽に足を入れ底板を踏んで体を沈めようとしたが、沈める
途中で底板が動きバランスを取るのに苦労した苦い思い出が
ある。

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平成27年5月18日(月)

< 関吉の疎水溝 >


11代薩摩藩主の島津斉彬は福井藩の松平春獄らと並ぶ
「幕末の四賢候」。

斉彬は清が英国に負けたアヘン戦争を機に富国強兵や
殖産興業を目指し、工場群「集成館」を建設。

集成館は水車などが動力。

鹿児島市内に残る「関吉の疎水溝」は川をせき止め、水車
に使う水を取り込んだ施設の跡。

集成館には製鉄のための反射炉があり、鉄製大砲も造っ
ていたようだ。

取り組んだ水は、風を送って反射炉の火力を高めるふい
ごや、砲身に穴を開ける装置などを動か水車などの動力
源になったようだ。

島津家は別邸「仙巌園」への給水などのために1722年
頃吉野疎水を造成し、斉彬はその流路を一部変更して
利用したとのこと。

旧取水口は1913年に決壊するまで使用。

現在の取水口はやや上流に造られ、吉野疎水も改修されてい
るが、半分近い3キロメートル強がかんがい用水として今なお
現役で頑張っているとのことだ。

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平成27年5月15日(金)

< 甘乳蘇ソフトクリーム >


南国・宮崎の行楽地に欠かせないスイーツと言えば、
ソフトクリーム。

都城市山之口町の酪農家が独自に商品開発した
甘乳蘇ソフトクリーム」が人気を集めているという。

一風変わったネーミングだが、牛乳の旨みを追求して
生み出したそうだ。

1980年代後半、清涼飲料水の台頭で消費者の牛乳
離れが進み乳価は下落。

そんな厳しい環境下で、この酪農家は今でいう6次
産業化に取り組み、たどりついたのが「蘇」という古代
乳製品。

平安時代まで保存食や薬として重宝されていたようだ。

試作から10年をかけ、1995年に漸く「甘乳蘇」として
商品化。

これを砂糖代わりにソフトクリームの材料に加えるとキャ
ラメルのようなこくが生まれ、後味はさっぽり。

そして口コミでじわり人気が。

本業が酪農なので大量生産はできないようだが、宮崎県
内外十数カ所の観光、温泉施設で販売され、人気を集め
ているようだ。


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平成27年5月14日(木)

< 駅長はそば屋さん >


島根県奥出雲町亀嵩の古い神社に、早春に東北訛の
奥出雲ー。

作家松本清張の直筆を刻んだ石碑との事。

亀嵩は清張の名作ミステリー「砂の器」の舞台になった地。

JR木次(きすき)線の亀嵩駅の駅長は、JR西日本から委託
を受けて切符の販売や簡素な駅舎の管理をする一方、改札
脇の業務室を使い、手打ちそばの店を営んでいるという。

「砂の器」の舞台を訪ねてきた観光客らで店は賑わいを見せ
ているようだ。

今の駅長は駅長兼そば屋という二足のわらじを父親から引き継
いだそうだ。

うどんの多い西日本で出雲にそば文化が息づいているのは、
江戸初期に信州の松本藩から松江藩に転封された松平家が、
信州そばの職人を連れてきたからと伝えられている。

奥出雲では、たたら製鉄の木炭を作るために木を切り出した
跡地でそばを栽培したため、そば文化が根を下ろしたという。

現在、亀嵩駅にそばを目当てに来る客は列車の乗客より
マイカーの方が多いという。

時代の流れか。

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平成27年5月13日(水)

< 鬼切畑 >


天孫降臨の地として名高い高千穂町。

ここには神だけでなく鬼の伝説も残っているという。

荒くれ者だったため退治された「鬼八」のことだそうだ。

高千穂町上野にその鬼八にちなむ地名「鬼切畑」がある
らしい。

同町中心部から車で10分ほど行くと「鬼切石橋」という橋が
あり、その橋を渡った先に「鬼切石の由来」という看板
があるという。

この看板に、鬼八は二上山の住み処を追われ鬼切畑集落
に姿を現したところを石の上で斬られたようだ。

鬼八は斬られた後も何度もよみがえるので、最後は体を三
つに裂かれ埋められたという。

鬼切石橋の下にこの伝説の石がある。

石は高さ約70センチ、幅約170センチ、奥行き約160セン
チ。

太刀筋のような割れ目が70センチほど地面近くまで達して
いるようだ。

ただ、この鬼切石の伝説もこの地域ではどこか遠い存在
になりつつあるようだ。

ただこの鬼切石の伝説もこの地域ではどこか遠い存在に
なりつつあるようだ。

伝承を守なければ、風化は進む一方。

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平成27年5月12日(火)

< 国産菜種油 >


日本人のカロリー摂取源は
 1位がお米
 2位が肉や卵などの畜産物
 なんと3位は油
ただその自給率は低く植物性油脂と動物性油脂を合わせ
ても3%で、ほとんど外国の油または油脂原料に依存して
いる状況だという。

ちなみにサラダ油とは油の原料の事ではなくて規格名だと
いうことだ。

ペットボトルに1リットルも入って300円程度で売っている
ものは、ほとんどが外国産の大豆や菜種から化学的に
抽出し、徹底的に精製したものだそうだ。

その油は味も香りも消え、嘗めておいしくない。

現在、輸入油に比べて量的にはわずかだが、国産菜種
を原料とした菜種油も作られているようだ。

国産の菜種油は、黄色い菜の花が結実して種になったものを
搾るせいか、黄金のようなに輝く液体。

これを瓶詰して、販売価格は1000円だそうだ。

輸入油の3倍以上するが、高級な輸入オリーブオイルは
もっと高いという。

国産の菜種油は炒った菜種の香ばしさとハチミツのような
香りがするという。

よい油には味と香りがあるということか。

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平成27年5月11日(月)

< 火吹き竹 >


台所にカマドがあった時代、火吹き竹は必需品のような
存在だった。

ちなみにこの道具は、長さ40~50センチ、直径3.4センチ
の竹筒の片方に節を残して2.3ミリの穴を開け、間の節を
抜いた形態のもの。

これで穴の反対から竹筒に息を吹き入れ、火をおこしたり勢
いを強めたりして使った。

子供(小学生)の頃、家の風呂を沸かす役目で、火吹き竹と
のつき合いがあった。

たき付けの乾燥杉葉か古新聞紙のいずれかと薪を焚き口
に入れ、点けた火が安定して燃えるまで、火吹き竹を
フーフーと吹いたものだった。

火吹き竹はアウトドア料理などで今も現役であるそうだ。

いずれは初めからアウトドア専用に作られた道具と思われ
る時が来るかもしれない。

その辺が気になる点なのだが・・・・・。

それにしても、風呂の焚き口で焼いたサツマイモの味は
格別だった。

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平成27年5月9日(土)

< 「今に見ていろ」ひそかに涙 >


現憲法は5月3日、施行から68年が経つ。

知られているように、この憲法は国民が定めたものでは
なく、原案は占領下GHQ民政局が作成したもの。

その原案は昭和21年2月13日に日本政府に提示。

GHQ原案は、「日本は自己の安全を保持するための手段
としてさえも戦争を放棄する」とするマッカーサーの方針に
沿って作成されたもの。

敵国日本の弱体化を図るもので、今も国の守りにブレーキを
かける9条はここに由来。

当時外相の吉田茂の懐刀で、GHQとの折衡に当たったのが
白洲次郎。

白洲は、民政局長のホイットニーに英文タイプの手紙を差し
出し、議論を尽くし、国情に合った憲法の制定を目指すよう
理解を求めたようだ。

白洲は当時でさえ非常識な占領軍による「憲法制定」に危機
感を募らせたのだという。

しかしGHQは聞く耳を持たず、日本政府は昭和21年3月
6日に、原案をもとにした「憲法改正草案要綱」を公表させ
られた。

白洲は翌7日付の手記に「敗戦最露出の憲法案は生きる。

『今に見ていろ』という気持ちを抑えきれず、ひそかに涙す」
と記し、くやしさをぶつけたようだ。

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平成27年5月8日(金)

< 宮崎北バイパス西側の水田 >


宮崎市中心市街地と市北部をつなぐ国道10号宮崎北
バイパス。

昼夜問わず交通量が多い幹線道路の西側には広大な
水田が。

この季節、夜になると道路沿いに並び立つ郊外店の照明
や車のヘッドライトの光が水を張った田んぼに映り込んで
いる。

この辺りで約60年間農業を営む農家の人は、昭和50年
代以前は用水路がしっかりと整備されていなかったため、
直線、曲線からなる田んぼのあぜを部分的に切り崩し、田
から田へと水を注いでいたという。

フナやザリガニもいた。

宮崎北バイパスは1998年に全面開通。

東側には電器店やスーパー、衣料品店が次々に出店し、
商業地域へと変貌。

幻想的な夜景は田植えの季節を知らせてくれるが、稲の生育
への影響も指摘されているようだ。

ただ、農家の人によると多少の発育の遅れはあるが気になる
ほどではないとのことだ。

60年の風景はどこにもない。

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平成27年5月7日(木)

< 宮崎の食、EUへ売り込み >


宮崎県の食品企業がEUへの輸出に動き始めたようだ。

人口減少による国内市場の縮小をにらみ、海外での足場
づくりを急ごうとしている。

健康食品の黒にんにくやにんにく加工食品を手掛ける
MOMIKIはフランスの外食店向け商談を進行中。

梅を使ったジャムをEU向けに商品化。

漬物製造の道本食品は1月、イギリスに「たくあんの缶詰」
を輸出。

缶詰は賞味期限が3年程度と、真空パックより長いそうだ。

各社がEUを目指すのは国内市場の縮小への危機感に
加え、宮崎県がフードビジネスを強化しているという背景が
ある。

その起爆剤と期待するのが食をテーマにした9月のイタリア
ミラノ万博と、10月のドイツケルンでの世界最大級の食品
商談会「アヌーガ」。

県内企業は万博に10社、商談会に17社参加するそうだ。

ただ、海外で日本企業同士が潰し合う事態を避けるため、
他の自治体と協力するといった多面的な戦略も必要になり
そうだ。

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平成27年5月2日(土)

< 武蔵の熊本入り >


二天一流の開祖である宮本武蔵が余生の約5年間を熊本
城下で暮らし、霊巌堂で「五輪書」を記したのは有名な話。

武蔵が熊本に来たきっかけは最強のライバルだった佐々木
小次郎との厳流島の決闘だったという。

武蔵が当時の熊本城主だった細川忠利に招かれ、熊本
入りしたのは1640年。

厳流島の決闘は1612年。

厳流島の決闘は当時の小倉城主だった細川忠興が許可
し、その家老だった松井興長が決闘の後見役を務めたと
いう。

武蔵はこの決闘で小次郎を破った後、1638年に島原の
乱にも出陣。

武蔵は1640年家老の興長に島原の乱の陣で贈り物を
もらったお礼を述べ、同時に暗に就職のあっせんを依頼
したようだ。

手紙が出されてから1カ月足らずで武蔵の熊本入りが
実現。

巌流島の決闘から28年に及んだ興長との親交や信頼
関係がなければ、武蔵は放浪と不定の武芸者として一
生を終えたかもしれない。

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平成27年5月1日(金)

< 轟橋と出合橋 >


大分県豊後大野市を流れる奥岳川が轟川と合流する地点
に轟橋と出合橋の2つのアーチ式名橋が架かっているそうだ。

轟橋の右岸側のアーチ式の両端の距離は32メートル、出合
橋は29メートルで石橋の径間としては、全国第1位と第2位
であることが確認されたという。

最初に架けられたのは下流側の出合橋。

大正14年に建設。

その80メートル上流に轟橋が架けられたのは昭和9年。

宮崎県との県境にそびえる傾山麓の国有林から伐採した木
材を搬出する森林鉄道の鉄道橋として建設されたようだ。

昭和30年頃まで鉄道橋として利用された後、道路橋に衣替
えしたという。

豊後大野市には阿蘇山大噴火による堆積土壌が河川によって
浸食された渓谷が多いそうだ。

渓谷に橋を架けるために利用したのが、火砕流が冷えて固まっ
た溶結凝灰岩。

このため、豊後大野市内には轟橋と出合橋を含めてアーチ式石
橋が115基もあり、日本一多いそうだ。

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